メリークリスマス!
最近、めし(昼飯)を食うと20分以内にうんこがしたくなるので、不便でしょうがない。また、この20分というのがくせものなのだ。めしを食べた店ではなかなか行きたくならないからもてあましてしまう。しかし、そのまま家に帰るには少し短すぎる時間なのである。
その瞬間はしたくないので、ま、いいか、なんて時間の読みをいいかげんにして、本屋で立ち読みなんかしていたりすると、気がついた時には緊急事態、内股で家路に着き、青い顔をして家になだれ込むことになる。
最近わかったことだが、このタイムスケジュールはかなり厳格だ。
食後20分を経過した瞬間から(便意は)怒濤のような盛り上がりを迎え、解放への興奮は右肩上がり、そして、限度はきっかり30分経過時点まで。寸分の狂いも許されない。最近は電車に乗る時にもこのスケジュールを逆算しながら、地点から地点への時間も正確に把握し……
……って、俺は毎日何と闘っているのか。
ウルトラマンのカラータイマーほどのかっこよさもない。
しいて言えば、黄金タイマーか。あほくさ。
負けたらどうする(笑)
では、ハバナイスデイ。
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2009.12.25
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先日、中島みゆきの「夜会」を見に行った。特別に彼女のファンというわけではないのだが、一度は行ってみたいと思っていた。非常に才気に溢れた舞台。この不景気の時代、いわゆる「タイアップ」なしで、本当にファンからのお金だけで「興業」できる底力に恐れを抱いてしまう。
ショーの詳細はこの稿では触れないが、特筆すべきは、お客さんの平均年齢の高さ。この私が下手したら若手になりかねないほどの高齢化ぶりである。
そして、おやじに囲まれているので、開始からずっとほんのりと周囲におやじ臭が漂っているのが悲しい。
中島みゆきのショーは、コンサートというより演劇的要素の強い構成で、かなり難解なテーマを彼女の書き下ろした音楽で表現していく。大衆性によったエンターテインメントというよりはむしろ、音楽作家として本当に表現すべき「純文学的」な試み、そんな思いを感じさせられながらショーは進んでいく。そして、その間、おやじの加齢臭は途絶えることなく漂い続ける。
タンスの臭い……。おやじ臭に関して、人それぞれの感じ方があるが、私の場合、どちらかというと和風である。今回の「夜会」のテーマも和風であった。周囲の加齢臭が意味もなくその文学的テーマに深みを与えてしまっていた。
ある医者が加齢臭のことを「人間の身体は約60パーセントが水分なので、身体の中にひとつの大きな沼があるようなもの、多少の入れ替えがあるとはいえ、長年の蓄積によって、その沼が腐ってくる。その腐敗臭が加齢臭の正体である」、というような趣旨のことを言っていた。
悲しい。ものすごく悲しい……。
人の沼は腐る。「名もなき君にも名もなき僕にも」である。
その夜はいい夜だった。
ショーがはね、家路に着いた。いろんな臭いに塗れながら満員電車で帰った。
家に帰って、Jackson Browneの「Fountain of sorrow」(悲しみの泉)を聞いた。ふと、胸元が気になり、自分の臭いをくんくんと点検した。
2009.12.21
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1996年に起きたエヴェレスト大量遭難事故に同行し、幸運にも生還したルポライターの手記である。
登頂後、下山中に悪天に襲われ、あいついで6名が死んでいくさまを描いた後半部分は、キュッと玉が縮み上がる。
男はなぜか「寒いところ」にふんどしを感じる。それは何もエヴェレストまで行かなくても網走や真冬の日本海など、日本にもふんどしスポットは数多い。昔、見た映画『八甲田山』の中の雪中発狂シーンも、それは青森のふんどし姿だった。
最近はとくに寒い。だが、コタツでホットミルクでうたたね、というのはTバックを穿いたギャルのやることである。男は寒い時に寒いところに行く。そんなことを感じさせる本である。
【空へ エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか】
(ジョン・クラカワー著、海津正彦訳、文藝春秋)
ふんどし度 ★★★
(再録)
2009.12.18
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阿佐ヶ谷の路地裏を歩いていたら、自転車に乗った40代後半の化粧の濃いど派手なおばちゃんと出前用のバイクに乗った50過ぎぐらいのおじちゃんが四つ辻で出会い頭に接触した。
おばちゃんはキャッと小さな悲鳴を上げ、何事かと私を含む周囲の人間が注目が集まったが、幸い接触自体はたいしたことなく、互いの乗り物の前部をガシャンとぶつけあっただけで、転倒することもなく「事」は終わった。かに見えた……。
ふたりは黙ってにらみ合ったまま動かない。
どちらもまったく謝らない。
謝った方が負けだと言わんばかりの、緊張の「立ち会い」である。
約5秒後、双方から微かに漏れ聞こえる舌打ちの音ともに、双方解散となった。
あきれた……。
みんなほんとに謝らない。いつからこういうことになったのか……。
何となくでいいから、謝りゃいいじゃんか。ぴょこっと頭下げるとか、「すんまへん」とか「すいませ~ん、きゃっ」とか「トゥース」とか。
そうじゃないと、きゅんとくるような出会いも生まれないじゃん。
レディファーストでも、バイクと自転車との違いでも何でもいい。信号のない、人も自転車もバイクもごっちゃに通る細い路地なのでどちらかがあきらかに悪いというわけではない。歩行中の私の後方約1メートルでの出来事なので、私だって危うく巻き込まれるところだった。要は、みんなが「気をつけて」通行すればいい、それだけの話なのだ。
一切、自分の非を認めずに四つ辻で睨み合う男と女。
あそこまで譲り合わないと世の中マンガだ。
人々は「謝罪」を忘れ、「糾弾」の機会を待つ。公共に放たれるアナログな言葉は「言質」となり、人々の生のふれあいは「接触」と呼ばれる。
コミュニケーションはデジタルの世界でのみ増殖し、「ゆる~い」という掛け声の元時折放たれる「偽善的な一体感」や「根っこのない許し合いの言葉」が、過去ログとして葬り去られる時を待っている。
この場合ジャンルは、コメディというより、もちろんSFである。
2009.12.17
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三田の牛乳屋である。
まだ、ある……。
この、「まだ、ある」というのが肝だ。だって、もはや、私の周辺にはコンビニで買う「おいしい牛乳」はあるが、牛乳屋および牛乳ビンなんてもんはない。
その昔、学生コンパの「狂乱の宴」の際、私は頼まれもしないのに、牛乳ビンを口にくわえ、手を使わずにカプカプとイッキ飲みを披露していた。まだ、できるかどうか知らないが、途中でよく笑わされたため、居酒屋の室内に大量のバカで白い液体が吹き荒れていたから、たぶん、もうやらないし、頼まれることはないだろう。
東京タワーや湾岸の高層ビルの臨めるこの地にある牛乳屋、それは80年代で言うところのサイバーパンクである。そして、2009年現在、広尾に行くついでにクルマから降り、パチリとやると、それは絵画の世界である。
その昔、牛乳ビンの蓋を集めることがはやったが、今、牛乳ビンの蓋を集めても何も生まない。しかし、少なくとも、自分の心の中に「まだ、ある」、へたくそだけどもいとおしい、そんな微かなる絵画的感性を思いだせてくれる。
2009.12.16
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