私が小学生だった頃、巷にある曲が流行っていた。ぴんからトリオ(後にぴんから兄弟に改名)の『女のみち』である。
当時、おミズ的女心を描いたコテコテのど演歌が、全国の小学生の間にも流行し、箒をギター代わりに(胸の位置に)抱えながら、こぶしをきかせたうなり声をあげ、廊下や教室を練り歩く姿が、あちらこちらに見受けられたのであった。
なぜ、小学生にそんなにうけたのか。
それは、ぴんからトリオのボーカルである宮史郎氏が、あまりにも「宮史郎的」であったからだ。
この表現は、あまりにも「自家中毒」すぎる。それはじゅうぶんに承知している。
先日、私に向かって、「ブログ読んでますよ」と、おべんちゃらを言っておきながら、「でも、やはりこれからは、中丸さんは、テーマにしている“ふんどし感”の定義をもっとわかりやすく説明するのが義務ですね」みたいなことを言ってきたバカな若者と酒を飲んだが、何でいちいちそんなこと説明せにゃいかんのか、「そんなのはトゥーマッチだ」(By 勝新太郎先生)。
わかりやすく説明できない、あるいはしたくない概念であるからこそ、そのコクやうまみを堪能できるのだ。ほっといてくれ!
話を「宮史郎的」に戻す。
特徴のある横ワケのぺったりとしたロン毛。薄く整えられた長い口ひげ。子泣きじじい系のおめでたき眉……。
ダンディズムというのとはちょっと違う。どこかが何かがコケティッシュ。
樟脳的清潔さともつ煮込み的生臭さ。回遊まぐろ的実直さとフレンチブルドッグ的かわいらしさ。極道的鋭敏さと隠居的とんま感。おめでたくもあり悲しくもある……。
もはや、何を言っているかぜんぜんわからないが、やはり、その佇まいは、「宮史郎的」としか表現することを許してはいない。
「宮史郎的」。
それは、その頃の小学生の脳裏に強烈に刻み込まれた一瞬の絵画。
では、それをビジュアルでお伝えしよう。

どうだろう。これが神々しき「宮史郎的」世界である。
(つづく)
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2010.05.31
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定食屋で目に飛び込んできた風景。
やかんの官能的なうめき声が聞こえたような気がするが、気のせいだろうか。
2010.05.28
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やっぱり私はこういう商売をしているので、書き手と呼ばれる人たちへの評価には(自戒の意味も込めて)自ずと厳しくなるが、春日太一さんというこの若い書き手の仕事ぶりには感服した。
帯には「『座頭市』と豪快な勝新伝説で知られる勝新太郎。本書は映画製作者としての勝とその凄まじい現場をスタッフの証言を元に再現し、繊細すぎる実像を浮き彫りにする。純粋さが加速させる狂気のノンフィクション」とある。
勝新太郎自身によるものではない、勝死後の、まったく他者による自叙伝だ。
著者は周辺への丁寧な取材によって勝新太郎の内面をえぐり出していく。
それは、当時の勝のこんな口癖に象徴される。
「そんなのはトゥーマッチだ」
「大袈裟に誇張された表現、説明のための表現……分かりやすくするため、盛り上げるためにデコレーションされた全ての表現を、勝は『トゥーマッチ』と切り捨て」(本書より)た。
勝は、百出した凡庸な表現を憎み、「心ある、本当の道をめざす人間は、自分だけの道を歩かなければならない。(中略)人々が長いこと見なれてきたものが、いかに退屈だったかを悟らせなければならない」(本書より)と、ひとり気を吐く。
私は昔、『VIEWS』(講談社刊)という雑誌で、田原総一朗さんの連載対談のアンカーライターをやらせてもらっていた。
そこで、運良く、勝新太郎VS田原総一朗という対談の機会を得た。
そこにいた勝新太郎(先生)は、もはや晩年にさしかかり、例の大麻騒動の後でマスコミにさんざん叩かれ、体調も万全という感じではなく声もかすれぎみであったが、それでも迫力はじゅうぶん。突然、脈絡もなく始まる憑依的な身振りや手振り、ぼそっと呟かれるセリフ、そのひとつひとつに鬼気迫るものがあり、対談は勝先生の独演会と化した。まさに、道なき道を歩む、そんな感じだった。
この本は創造者を元気にさせる。孤高の歩みはつらい。でも、「千里の道を歩いていくなかで、心に芽生えた疑問、芽生えた愛、芽生えた醜さ、芽生えた尊さ、いとおしさ、いつくしみ、すべてを、自分だけにしか表現できないやり方で、表現しなくてはならない」(本書より)と、その存在に大義を与えてくれる
“トゥーマッチ”だが、最後にもうひとつ、本書からのエピソードを紹介するのをお許し願いたい。
香港の配給会社ゴールデン・ハーベストのプロデューサーが、勝プロとの提携に関する案件として、小柄で痩せたひとりの男を提案した。
「一度、こいつのアクションを見てくれ、物凄いから」
と、プロデューサーは勝新にフィルムを渡す。
フィルムを見た勝は、「その男の、奇声を発しながらのアクロバティックなアクション」に思わず吹き出し、こう呟く。
「これはマンガだよ」
その一言で、勝新とブルース・リーとの共演は幻に終わった。
“孤高”は、時に交わり、時にすれ違う。
やはり、勝新太郎は天才である。
『天才 勝新太郎』春日太一著(文春新書)
ふんどし度 ★★★
2010.05.27
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電車の中で、ものすごく足のでかい人を見た。
革靴を履いた若いサラリーマンが、電車内の椅子に座り、私の前に足を投げ出していた。
その薄茶色の靴は、最近流行の先端とんがり気味のデザイン。あまり磨かれていないらしく、埃っぽいたたずまいで、スーツのパリッとした感じとは裏腹に、下半身と地面との境界が曖昧に溶ける。
でかい靴……。たぶん、アラウンド30センチではないか。
あのでかい靴は、私に言わせりゃ、ありゃ、船だ。
“260”ぐらいのマブチの工作用モーター(160円)をつけて、学校のプールで走らせてみたい衝動に駆られる。いや、俺、小学生だったら絶対やってる。
「おじさん、ちょっと、その靴貸して」って。
ちなみに、私の足のサイズは26センチだ。それなりに昔の人だから、体格に比べて、意外と小さい。
「バカの大足、間抜けの小足」と人は言う。
今の若者がバカ足なら、私の足はどちらかと言うと間抜け系である。
でも、誰が言ってるんだか知らないが、何でバカとか間抜けとか言われなきゃいけないのだろうか。詳細を調べるのはめんどくさいが、私は感覚的に、それは道でうんこを踏み抜いた時の絵柄からきているんだと思う。
バシャーン! うんこを踏み抜いた大足は、迫力がありすぎて徹底的にバカだ。
ムニョ。うんこを踏みあげた小足は、例えようもなく間抜けだ。
そして、こんなことを書いてよろこんでいる私は……。
まったくもって、小学生的にアホだ。

2010.05.25
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しばらくブログを書いていなかった。また、例によってその理由はわからない。
ま、しいて言えば、風邪をひいたのをきっかけに、二週間ほとんど声が出なくなっていたことが理由か。
風邪はとっくに治ったのに三週間経っても声がれが治らない。
さすがに心配になり医者に行くと、そこの女医さんは、まだ心の準備のできていない私の右の鼻の穴にいきなり内視鏡を突っ込み、涙目でワタワタする私に向かい「ポリープができてますね」と他人事のように(他人事だけど)言った。
女医さんは「何か喉をよくお使いになるご商売ですか?」と尋ねた。歌手やアナウンサーなど、比較的喉をよく使う職業の人がなるらしい。
私の職業はその反対。黙々と原稿を書いたり、酒でも飲みながら、滑舌悪くぼそぼそと説教をするような商売だ。
「いいえ」と答えながらも、“あ、俺、もしミュージシャンだったらツアーは中止だな”と、心の中でおもしろがった。
しかし、声が出ないって、めんどくさい。
おもたせのワインを買おうと酒屋で「5000円ぐらいで何かおいしいのを」と、ガラガラのかすれ声でやっとの思いでオーダーすると、おやじは「はい、わかりました」と1000円の安ワインを持ってきた。
「いや、5000円ので」と言うと、おやじはムッとしながら、「だって、1000円って、言ったじゃないか」とめんどくさそうに言った。
いや、そうなんだけど、声の立ち上がりが悪く、最初の“ご”(5)が出なかったんだもん。許してよ……。
今、俺は、“言った、言わない”の議論をしたら、確実に負ける(笑)。
正確に言うと私のこの病気、「声帯結節」と言うらしく、一度できてしまうとなかなか治らないらしい。ってことは、かすれ気味の声がしばらくは続く。
映画『ゴッドファーザー』で、あの渋いかすれ声のドン・コルレオーネを演じたのは、マーロン・ブランドが47歳の時だ。(『ザ・ゴッドファーザー』ハーラン・リーボ著、ソニーマガジンズ)
なんか知らんがちょうどいい。ぐっすん。
やっと声は出るようになったけど、立ち上がりが悪いからそこんとこよろしく。
2010.05.24
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