この前、実家の物置から中学時代に履いていたアディダスのばったもののスニーカーを発見した。白地に三本ラインのそばに刻まれていた文字は「ADIUMⅡ」(アディウムⅡ?)だった。どた靴みたいなへんなシェイプだった。
私はへんな靴が好きだ。
靴はその人間をドレスアップする一方で、その人間の深層に漂わせている「質感」を、文字通り足元から転覆させる力を持つ。
つまり、一瞬で台無しにする破壊力を持っている。
高校の時、まるでコッペパンみたいな靴を履いてきて、みんなから「パン靴」とあだ名され、涙ぐんでたやつがいた。
そいつはいいやつだったが、印象の後味はどこか間抜けだ。
ジャクソン・ブラウンのDVDに、ジャクソンがへんな形状のギターを見せびらかしていると、仲のいいスタッフから、「ジャクソンの靴みたいだ」と言われているシーンがあった。きっとジャクソン・ブラウンも「パン靴」並のへんな靴を見られた過去を持つのであろう。
ジャクソン・ブラウンは、とても好きなミュージシャンのひとりだが、派手さはあまりないけれど、やっぱり、実直でいいやつなんだと思う。
でも、本当のこと言うと、靴を選ぶのは難しい。「俺は本当にこの靴を履いてだいじょうぶなんだろうか」と、どうしても、買う時に躊躇してしまい、なかなかアイテム数が増えていかない。
靴は案外雄弁だ。だから、みんな空気を読んだ「普通」を目指し、ナイキやアディダスなどの「無難な」スニーカーや「定番」のビジネスシューズが世の中に蔓延する。
へんな靴は心の隙間に宿る放言。ほっと息を抜いた時に出てしまった屁だ。
私はへんな靴が好きだ。
夜中に酔っぱらって「へんな靴」というキーワードでググってみたら、こんなページが出てきて、その靴に思わず大笑いしてしまった。
敬意を表し、リンク。→【Dignity couture】 いい(へんな)靴は「履く・履かない」の基準を超える。
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2010.06.28
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チャールズ・M・シュルツは、あのスヌーピーの生みの親だ。いや、もっと正確に記せば、全米をはじめとして世界各国で40年以上の長きにわたって親しまれてきた漫画『ピーナッツ』の作者である。
『グッド・グリーフ(なんてこった!)』(チャーリー・ブラウンの口癖)と題されたこの本は、チャールズ・M・シュルツの生い立ちを中心に、『ピーナッツ』の登場人物たちが生まれてきた背景やその時代の空気感などを丁寧に描写している。
主人公のチャーリー・ブラウンは何をやっても「ふにゃふにゃ」だった。それは、作者の子ども時代のこんな経験が影響しているのかもしれない。
シュルツはミネアポリスの理髪店のひとり息子として生まれた。
以下はシュルツの述懐。 「髪を刈ってもらおうとよく父の店まで行ったことがある。私が刈ってもらっている最中に、もし誰かお客が入ってこようものなら、私はすぐに椅子から降ろされる。そして父がそのお客の頭をすませるのを待つんだ。そこに座り、半分虎刈りにされた頭のままで、どんな顔をしていいかわからないような気分でね」
はるか昔のいかにもささやかなできごと。その当事者の父と子の間だけに起こった小さなドラマ。しかしいかにも何げないそんな小さなできごとをシュルツはいまでも忘れることができない。(本文より)
作者はチャールズ・M・シュルツの創作の背景を見事に描き出す。
「『ピーナッツ』を見れば、おかしみとは悲哀から生まれるもので、幸福からではないということがよく分かる。(中略)片思いはこっけいに見える。相思相愛は面白くもなんともない。上手に凧を大空に泳がせている子供からはおかしみはうまれてはこない。ところが、木に凧を絡ませてしまった子供にはおかしみが漂う。」 ~「人生はむなしいもの。最後にあるのは敗北なのだ。名声ははかなく、憂鬱ばかりがいつまでも続く。誉れは勝利にあるのではなく、失敗するとわかっていながらも挑戦することにある。」(本文より)
これぞ、“ザ・アメリカ”。 アメリカの良心と神経症が同時に感じられる一冊である。
『グッド・グリーフ~チャールズ・M・シュルツと「ピーナッツ」の世界』リタ・グリムズリィ・ジョンスン著、越智道雄監訳(リブロポート刊)(絶版) ふんどし度★★
2010.06.25
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最近、街のくすり屋さんで、よくこののぼりを見かける。思い切った「言い切り」に思わず微笑みを浮かべてしまう、私の好きな作品のひとつである。
口臭や体臭はいつの時代にも嫌われ、その人間の価値を一段低く見積もられる。
曹洞宗の開祖である道元が、宋に留学していた折り、諸寺を回り僧侶に会った際の印象が『正法眼蔵』第五十「洗面」の章に描かれている。
~しかあるに、大宋国、いま楊枝たえて(注・絶えて)みへず(注・見ず)。嘉定十六年(1223年)癸未四月のなかに、はじめて大宋に諸山諸寺をみるに、僧侶の楊枝をしれるなく、朝野の貴賤おなじくしらず~(洗面) ~しかあれば、天下の出家在家、ともにその口気(こうき)はなはだくさし。二三尺をへだてゝものいふとき、口臭きたる。かぐものたへがたし~(洗面)
その頃の日本では、楊柳の細い材を削って先を房状に切り残したものが、歯ブラシ代わりとなっていた。道元は、その楊枝がここ宋の国ではお目にかかることなく、みんなすごい口臭、たえられまへん、と、そんなことを記している。
司馬遼太郎の『街道をゆく~越前の諸道』(朝日文庫)によると、「道元は極度に知的な人であった。逆に、そうであればこそ、具体的な日常の規範を重んじた。かれは、「洗面」の中で『法華経』などをひき、僧たるもの、体をきれいに洗い、いつも清潔な衣をつけているべきである、とし、それが仏法の初歩である」としていた。
大宋国の仏教などと威張り、日本を見下しているが、口臭いくせに……。
つねに新参者の下位に置かれていた道元が、宋国の僧に対して、このような感情を持ったことを、司馬遼太郎も否定していない。
「ちゃんと歯磨きなさいよ。汚くしてると嫌われるよ」
大僧侶の教えも大事だけど、おかんの教えの方がもっと大事である。
2010.06.24
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部屋で原稿を書いていると、戸外から大音量のスピーカー音が聞こえた。光化学スモッグ発生の注意を呼びかける杉並区からの広報である。
私が小学生だった1970年代にはよくあったこの「光化学スモッグ」だが、最近、また、地球温暖化などの影響で微妙に増えてきているらしい。
当時、環状七号線の近所にあった小学校に通っていたのだが、「光化学スモッグ」警報や注意報が発令される度にサイレンが鳴り、せっかくの昼休みに教室へと引き戻された。
特に梅雨から初夏のこの時期、校庭のフェンスに設置された「内」「外」と表示された掲示板にいつも目をやっていたのを思い出す。その半分手作りのような掲示板は、「外」は元気に校庭で遊んでよし、「内」は教室でおとなしくしてろ、の指図である。
全校生徒は窓から眺めながら、その指図に従う。
雨ならまだ許せるが、この「光化学スモッグ」のおかげで、何度、昼休みを台無しにされたことか……。
ま、こんな思い出は全国的らしく、『帰ってきたウルトラマン』の第1話に登場した怪獣・タッコングなどは、当時、社会問題となっていたこのような公害問題を背景に作り出されたとされている。
マンガやTV番組、各エンターテインメントなど、昔の秀作には、きちんとその時代の避けては通れない「社会問題」や「思想性」が滲んでいたと言われるが、2010年に発生した光化学スモッグは、いったいどんなクリエイティブを生み出すのか。
エアコンと空気清浄機の効いた部屋で、ふとそんなことを想った。
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2010.06.21
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いつだったか、中央線沿線にある某有名「赤提灯系一杯飲み屋」に、ひとりでふらりと入った。週末の16時頃の話だ。
初めての店だったが、いかにも雰囲気が良さそうだ。まだ、明るさの残る時間だというのに、店内はうまそうに酒を啜る人たちで穏やかな賑わいを見せていた。
私はビールと焼き鳥数本を頼んだ。
黙って、砂肝を食った。なんか知らんが思いっきり不味かった。ひと串に三きれの塊がささっているのだが、それは砂肝というより風呂の栓。焼き過ぎなのか時間の経ちすぎなのか、とにかく堅くて、噛んでも噛んでもぐにょぐにょと噛みきれず、噛むと同時に湧き出してくるはずの肉汁もほとんど感じられず、下にまとわりつくケミカルな気配のみがじんわりと脳の方に上がってくる……。
ひと塊目は何とか胃の中に収めたが、ふた塊目は、何が悲しくてこんなものを食べなければいけないのかと、とうとうこらえきれず口から吐き出し、店の人に気づかれないように目の前にあったティッシュペーパーにくるんで、ポケットの中に隠した。
何だかなあ、な瞬間だった。その店には悪いが、ビールも飲み干さないうちに、そそくさと出た。もちろん、三塊目は置き去りである。
最近、おやじの専売特許であった赤提灯系一杯飲み屋がブームだと言っていい。ホッピーだのハイボールだのと、一昔前は見向きもしなかった類の酒や雰囲気を求めて、若い女性や昭和を気取る若者が、場末感漂う路地裏の飲み屋にまで大挙して押し寄せる。
だが、ここでひとこと苦言を呈したい。最近の風潮は、このジャンルとしての「赤提灯系一杯飲み屋」を過信しすぎである。
確かにおやじのいい顔やホッピー彩られる居酒屋で酒を飲む快感は何事にも代え難い魅力だ。だが、そういう雰囲気という調味料を加味しても耐え難き「不味いもの」があるというのも、また、忘れてはならない事実だ。
不味いものにも「雰囲気としての味」がある、という微妙な勘違いを犯しがちだが、やはり不味いものは不味いものでしかない。そこにあるのは、瞬間的な不快な感情と、同時に湧き起こってくる「美味いもの」への感傷である。
この小泉武夫さんの『不味い』はおもしろい。
「不味いカニ」「ホテルの朝食の蒸した鮭」「不味いフライ」「カラスの肉」「不味いビール」「未去勢牡牛の肉」「不味いカレーライス」(目次より抜粋)……。
彼が各地で遭遇した不味い食い物に関しての思いを綴っている。
おいしいものが好き! おし、それはわかった。だが、不味いものは無視してはいけない。不味いものには不味いものの意味がある。
この本には、小泉さんの、きちんと『不味い』食い物と対決した姿がある。本人曰く、「泣き寝入りの鬱憤晴らし」(あとがきを要約)らしいが、それもまたキュートだ。
私はこの本を読み、先日の居酒屋の砂肝を思い出し、三塊目から逃げたことをちょっとだけ後悔した。
『不味い』小泉武夫著(新潮文庫) ふんどし度 ★★★★
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2010.06.18
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