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心の旅【移ろいの美、上高地を歩く(長野・上高地)】

 ミスタープロ野球・長嶋茂雄は、正座をして本を読む。本人曰く、「そのように姿勢を正さないと、本の持っているパワーに負けてしまう」らしい。

 日本アルプスを望む景勝地・上高地は、正座の似合う観光地である。
 今のご時世あたりまえだが、タバコの一本も吸える雰囲気ではない。そればかりか、まるで誰かに正座をさせられているような「パワー」を感じ、普段だらしない人間がまったく違う行動をとってしまう。「神河内」「神降地」とも称されるこの地は、そんな不思議な場所だ。



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 約二〇年ぶりに上高地を訪れた。
 もはやこの地に対する記憶はおぼろげで、実際にもう一度、この目でその正体を確かめたかったからだ。

 上高地は、明治中期に日本に来たイギリス人宣教師・ウォルター・ウェストンによって見出され、芥川龍之介をはじめ、多くの文化人を魅了してきた日本有数の景勝地である。そんなことは、たしかに何となくではあるが理解していた。もう何年も前からマイカーの乗入れ規制がしかれ、人を運ぶバスなどにも、排ガスやエアコンの使用など、厳格なコントロールがなされている、そんな「厳格さ」も、微かながら聞き及んでいた。しかし、私にいちばん効きがよかったのは、冬季に完全封鎖されるという事実だった。

 「シャイニングの旅」。出発前に書いた旅程表の隅には、こんな走り書きのメモが残されていた。冬季閉鎖中のホテルの管理人として住み着いたジャック・ニコルソン演じる主人公に降りかかる数々の奇妙な出来事。導入部の山々を見渡す空撮。スタンリー・キューブリックの映画『シャイニング』をモチーフとした、荘厳だがちょっとおどろおどろしい旅、そんないかがわしい空想を持っていたのだった。
 そんなサブカルチャー的「斜め」の見方をしてごめんなさい。とりあえず、最初から謝っておく。上高地はどこまでもどこまでもストレートな「正座の似合う」場所なのであった。

 上高地入りするクルマの中継地点・沢渡(さわんど)に着き、タクシーに乗り換えた頃、あたりはどしゃぶりの雨だった。

 六月初頭の平日。ゴールデンウイークの喧騒が一段落し、比較的観光客の少ない日だと、紳士然としたドライバーが言う。なにしろ、トップシーズンには一日四万人もの人が上高地を訪れる、と誇らしげに続けた。ひえー。私はドライバーに、まだマイカー規制のなかった二〇年前の初めての訪問の記憶を少しだけ語った。

 急勾配のトンネルを抜けしばらく走る。豊かな新緑に彩られた上高地地区に入った。
 爽やかな景色だ。だが、その爽やかさが何だか尋常ではない。目に飛び込んでくる風景そのものが、まるで液晶テレビに映るハイビジョンのようなどこか調整された輝きなのだ。意味もなく感じた逆説的論理。その秘密を車中の紳士に教わる。
 紳士は、「上高地地区は、この地を治めていた松本藩の材木の伐採場になっていたので、ここの木はその時に切られた後のものが多く、木が比較的若いのです。だから、完全なる原生林ということができず、なかなか世界遺産にはなれません」と無念そうに語った。

 クルマは大正池にさしかかった。大正時代に焼岳の噴火により出現したこの池は、昭和に入ってからも、豪雨や小噴火など自然の影響を受け、次第に狭められ、その姿を変貌させている。
 どこか後ろから透過照明を当てられているような「移ろいやすき美」。高原へ誘う紳士の突っ込みどころのない話に、私は黙って心の中で正座をした。

 相変わらず、雨が降っている。上高地地区の中間あたりに位置する上高地帝国ホテルで、しばし天候の様子を見ることにした。
 ロビーラウンジでお茶を飲んでいると、少し小雨になってきた。ホテルで傘を借り、散策に出発した。約一五分歩き、上高地最大のビューポイント、河童橋に到着した。雨模様にも関わらず、幾人ものアマチュアカメラマンが、橋上から臨む雪を被った穂高の景色に吸い寄せられるようにシャッターを押している。

 ここ河童橋を中心にして、上高地地区にはそれぞれ逆方向にふたつの散策コースが用意されている。河童橋から穂高方面を目指し、森林の中を通り、穂高神社、明神池に向かうコース。もうひとつが、焼岳方面に梓川を下り、田代池、大正池などを巡るコースだ。今、タクシーで横目に眺めてきた沢渡方面へと下る大正池までの往復は1時間コース。私は、とりあえず、まだ見ぬ明神池へのコースを歩き出した。


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 雨中を黙々と歩く。都会のように「具体的な」景色の移り変わりがない分だけ、果てしない道程のように感じるが、平坦な道で、森林のクールな空気感と少し汗ばむほどの昂揚感が心地よい。画角に収まりきらない風景に圧倒されながらも光の変化をファインダー越しに楽しむ。湿地に渡された木製の通路の上で、思いっきり猿のフンを踏み、背筋を痛めた。数分後、神の降りる池・明神池に着いた。気が付くと雨はあがっていた。

 幽玄な感じはするが、かといっておどろおどろしい感じはない。歴史の重みや自然の深みに押しつぶされそうな気もするが、それを上回るほどの澄んだ感覚が全身を心地よく包む。音もなく、声も出ない。まさに、正座をしたくなる場所だ。

 復路、また雨が滲んできた。急ぎ足で湿地帯を抜け、日頃の運動不足を吹き飛ばすほどの真剣さで森林を抜けた。河童橋にたどり着くと空は晴れ、遠くに見える穂高にはきれいな雲がかかっていた。身体中びしょ濡れ、全3時間のコースだった。

 河童橋近辺の山小屋でカツカレーを食べた。身体に悪そうなカツの脂にほっとした。それは正座をとかれた後の爽快感に少しだけ似ていた。


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(2007年6月)



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2011.01.31 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他

かっこわるい人

 今、かっこわるい人って、どこにいるのだろうか。そこにいるだろ、それはそんなこと考えてるおまえじゃねーか、というツッコミはあるとは思うが、とりあえず、そこは棚に上げといて、ちょっとまじめに考えてみる。

 「クール」とか「やばい」とか「かっけー」とか、「かっこいい」ことに対していろんな言い方があるとは思うが、今は人に対して小学生でさえそのようなことを言う。

 昔はそんなにかっこいい人がいなかった。だから、いわゆるスターとか芸能人とかモデルとかの存在意味も今よりもあったし、また「芸能人みたい」とか「モデルさんみたい」と言う表現にも言葉としての意味があったような気がする。

 逆の言い方をすると、自分の親や学校の先生や同じ部活のチームメイトとか、いわゆるそこらへんにある「普通」が「かっこわるい」状態だったので、自分の「かっこわるさ」に対しても鈍感であったし、頭抜けた「かっこよさ」に対しても今ほどどん欲ではなかったような気がする。

 「かっこいい」とか「かっこわるい」とかは、それはそれなりに思春期の頃には大事なことだったけど、ただ単に「容姿を問う」ということは、それ自体、スペシャルなことであって、とりあえず十人並みの容姿をしていれば問題ない、そんなことを考えるひまがあったら勉強しろとか、洗い物ぐらい片付けろとか、オナニーばっかりするな、というのが街や教室の空気だったように思う。

 そして、町にはじゃがいもみたいなおじさんとか鬼瓦みたいなおばさんがいっぱいいたし、じゃがいもみたいなおじさんはとびきりおいしいコロッケを揚げ、鬼瓦みたいなおばさんはいつも陽気にきゅうりを新聞紙に包んでいた。
 テレビの中でも、容姿以外のちゃんとしたひとつの才能を認められた様々な人が出演していて、そういう人たちはどちらかというと、女優さんや歌手ではないので、容姿は「問われない」というのが、普通のことであった。

 そして、時代は変わった。

 若きイケメンイタリアンシェフ。美人過ぎる政治家。二枚目さわやか新人投手。

 今、テレビで多くの「かっこいい」美男美女が活躍している。

 でも、やっぱり、この「かっこいい」ということと、その能力との関係はないはずだ。能力もさることながら、何となく見た目の感じがいいから世論がさらにそれを支持しているという論理的な手順を、もう一度きちんと確認しておかないとややこしい世の中になる。

 もう少し前のことになるけど、政治家の亀井静香氏が小泉純一郎元首相と郵政選挙で対決した時、「向こうは見栄えがいいけど、俺はこんな顔だから損してる」と、さんざん愚痴をこぼしていた。

 いつからの流れかはよくわからないが、この「かっこよさ」の暴走はたぶん止まっていない。テレビに出る人、写る人はスタイリッシュでなければならない。絵柄が大事だとか場持ちがするとか、そんな言説がかまびすしい。

 だが、そろそろ、そういう「一億総プロデューサー的」呪縛からは、解き放たれるべきだ。

 政治の世界でもスポーツの世界でもエンタメの世界でも、もっとかっこわるい人を探せ! ダメで食えないが本当の実力を持っている男や女の能力を世間にさらせ! そんな空気が起こり始めているような気がする。

 見た目がいいものがすべておいしいものではない。レインボーカラーの味噌汁はどう考えたって飲みたくないし、器だけすごくても不味い鮨は不味い鮨だ。

 自民党のおてもやん、石破茂先生は、失礼だが、けっしてハンサムとは言えない。だが、そのことと彼の政治家としての実力や能力とはまた別の話である。

(私は政治や経済を評論する立場にはないが、あえて言わせていただければ、私は彼に個人的に期待している。世間の人はどのように見ているかは微妙だが、あのいっちゃった目は真剣の証だと思うし、あの「人を論破しながらポッとほっぺを赤く染める」血行の良さは、私には善人の相に見える。カラオケの十八番がキャンディーズときたら、もはや40オーバーのおたくの心はわしづかみである。)

 かっこいい人や美人は街に溢れている。

 日本におてもやん(的)内閣が生まれた瞬間に、確実にこの国の美意識は変わる。

「かっこいい」「かっこわるい」は元々が曖昧な基準だ。

 だから、たった今、かっこわるい人が社会を、そして日本を変えていく。

2011.01.21 | コメント(0) | トラックバック(0) | マンガ的!

心の旅【原風景を超ゆ(高知・四万十川)】

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 その彼は「俺が5歳の頃……」とよく口走る。その大半が「肥だめに落ちた」とか「肩にカラスが止まっていた」みたいなどうでもいいことなのだが、その嘆きとも自慢ともつかない曖昧な武勇伝の数々は、どうやら過ぎ去った過去、幼年期の「輝かしさ」に触れ、ひとり悦に入りながら自分の「明日への自信」を取り戻すためのもののようだ。

 今日も誰かがつぶやく。「俺が5歳の頃……」。

 隣で飲む男は爽やかに無視をし、目前で飲む女の気持ちは10メートルほど遠方へとスライドしていく。
 でも、もしかすると、こういうのを原体験というのだろうか。
 原体験とは、「記憶の底にいつまでも残り,その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験」(大辞林)のことを言う。「その原体験から生ずる様々なイメージのうち,風景の形をとっているもの」(大辞林)、それが「原風景」である。

 四万十川を訪れた。
 ここ高知県にある四万十川の評価を改めてくどくどと説明する必要もないだろう。日常の喧騒を逃れ東京から訪れた「初心者」の私の目前でも、「日本最後の清流」との名声にふさわしい景観を十分に感じさせていた。
 心が洗われる。それがその評価にふさわしき感想である。

 全長一九六キロに及ぶこの川に多数存在する「沈下橋」に関しては、若干の説明を要する。
 沈下橋とは欄干がない、まるで川の上に割りばしを載せたような“簡易型”の橋である。この簡易さには、重要な意味がある。沈下橋はその名の通り、増水時に橋が水面下に沈むようになっており、流木や土砂によって橋が破壊されたり、川の水が塞止められ洪水になることを防いでいる。また、壊れても簡単に再建できるという利点もあり、山間部の生活道路としての原初的な思想性のようなものを、擦れた都会人にじんわりと感じさせている。

 不入山を源泉として流れ出た四万十川は、山間を縫いながら周辺の小川を集めて、しだいに大きな流れになってゆく。山清水を集めた川は澄んだ水をたたえながら窪川盆地に入り、周辺の田圃を潤している。
 私は、高知市から約2時間クルマを走らせ、この窪川という町にたどり着き、ここから上流の松葉川温泉まで、ゆっくりと遡っていった。
 出発時の、まだどこか優しい空気から少し険のある陽光に変わりはじめた頃、クルマはこの川のかなり上流にいることに気が付いた。
 いったいここはどこだ? 表現の手がかりを見失う。
 あるのは自然ばかりなのだが、何か相対的に比較評価できるような“もの”が何も見当たらないことに不安感を覚える。

 「俺、夜中にここでひとり放り出されたら絶対に泣く」。
 ハンドルを握りしめながら、ふと思った。

 人は自然の中にどこか自分の中にある原風景を照らし合わせる。
 しかし、ここは簡単に言えば、原風景を超えている。俺が5歳の頃……、っていったって、私の場合、せいぜいが昭和40年代である。もちろん、それが昭和20年代の人もいるし、もしかしたら大正時代の人だっている。そして、その時代の記憶の底に残るようなメルクマール的事象や風景に触れ、初めて原風景が意識される。でも、今生きている人間の原風景ってたって、地球の命に比べたらたかがしれている。

 ここにあるのは、水、草、石、土……。あまりにも強大な自然の中でちっぽけな生き物の気配さえかき消されている。アースカラーの淡い光が何千年も変わらない陽の光と日常の風景を構成している。風景の中に微かに滲むアスファルトの淡いグレーが、かろうじて人の息吹を感じさせている。ハンドルを握る左手のシルバーの腕時計の鈍い光がやけに違和感を感じさせる。

 日本昔ばなしの世界? でも、それは明治時代なのか、江戸時代なのか、それとも室町時代なのか、皆目見当がつかない。言うなれば、ここにあるのは古代だ。日本人というより時間・空間を包括した国家の原体験が蓄積されたような風景。大げさに言えば、今、そこに日本という国そのものの原風景を感じるのである。


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 沈下橋から川に飛びこんだり、山に分け入ったり、そんな派手なことは何もしなかったけれど、何度もクルマから降り深呼吸をした。でも、その度に落ち着かない思いも感じた。存在とは相対的なものであるのならば、その相対するものがあまりにも莫大すぎるのだ。

 さらに奥へと向かう。いよいよ最上流だ。長く曲がりくねった道の先に“人里”が見えてきた。松葉川温泉だ。県内・他県からの宿泊客のみでなく、近隣の人も気軽にひと風呂浴びに来る、こじんまりしているがとても素敵な温泉だ。この温泉で夕食を取った。香の強い地場の仁井田米や鮎の塩焼きにますますの“古代”の香りをかぐ。そして、今この時の原体験が、私の恥ずかしき頭の原風景になる。

 「俺が5歳の時……」。
 そんなものは、何歳の時だっていいじゃないか。とにかく気持ちのいい時間。(2007年3月)

2011.01.17 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他

エスパイ

 映画『エスパイ』を見た。小学校の頃、従兄弟たちと関内の映画館に見に行った思い出深い作品だ。

  原作は小松左京。SFっぽいというかニューエイジ的というか、とにかく、公開当時、いくら私が小学生だったにしても、その「荒唐無稽な企画」感があまりにもトホホだったのと、それから、劇中に飛び出た由美かおるのおっぱいがすごすぎて、詳細をすべて吹き飛ばしてしまった、という、そんな作品と化していたので、もう一度この目で、この作品の本当の質感を味わおうと、ビデオ屋で借りてきたのでした。

 で、改めて、感想。

 もー、なんかすべてがマンガ的だった。

 超能力の出し合いといい、スイスと称した野っ原でのロケの「頃合い」といい、爆破シーンの中途半端な火薬量といい、何から何までマンガ的。しまいには、草刈正雄のバタ臭いかっこよさまでが、マンガ的に見える。

 インドの行者(みんなから導師と呼ばれている)と称する人間は日本人の黒塗り、スイスや中東の都市(イスタンブール)などを舞台にしているが、出てくる外人はみんな日本語(吹き替え)という制作者側のざっくりとした進行具合。

 公開当時、話題にもなった由美かおるの催淫剤を飲まされて、セクシーダンスを披露するシーンだけは、子どもの下腹部を直撃。おっぱいが飛び出るシーンは、まさに「エスパイ」と声を出して叫び出したくなるようなびっくりよう……。

 また、世知辛しさもグローバルスタンダードな現代と違って、日本が勝手に描き出す「インターナショナル」は、どこか牧歌的。バルトニア首相の暗殺計画が進行しているという設定なのだが、武器自体が(あるんだかないんだかはっきりしない)超能力でたいしたことないから、これといった緊張感もなく、全体的にほのぼのとしている。建物の少ない原っぱでロケをしているさまは、ほとんど「かくれんぼ」の世界観だ。

 それにしても、今の「風俗」に比べると、登場人物すべてが濃い。もう、こってこてのおたふくソース。顔が濃いだけでなく、佇まいそのものが濃い。

 主人公である藤岡弘と由美かおるが、だべってるというか、「密度の濃い」おしゃべりをしている場所はパリのカフェなのに、なぜか日本のスナック感バリバリ。おまけに、由美かおるのホットパンツは、「自然環境」を破壊しかねない迫力の悩殺ぶり。 敵役の若山富三郎(特別出演)の髪型は意味もなく鳳啓介風。今で言えばタカトシのタカの髪型。

 ……と、あまりこういったツッコミを前提に映画を見るのは好きではないのだが、それにしても、この『エスパイ』はその禁を破ってしまうほどの「マンガっぷり」であるということだけは、この際、確認しておきたいと思う。




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2011.01.13 | コメント(0) | トラックバック(0) | マンガ的!

イカくさい男

 イカには純文学的佇まいがある。

 「イカくさい男」「イカ好きな女」「イカパーティー」。

 どの言葉も心をざわつかせる何かを持っている。

 おいしく噛み応えのあるイカは他の魚介類よりも特にカロリーが低く、低脂肪。イカにはタウリンという血中コレステロールを減少させ、活力を与えてくれる物質が多く含まれていることでも有名だ。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 イカの素敵な質感と佇まい。

 イカは胴体部分が透き通った乳白色、身にツヤがあって弾力があるものほど新鮮と覚えておくといいらしい。

 でも、そんなこともどうでもいい。

 イカのランジェリーにも通じる官能的なあのてかり。

 イカを食い物としてしか見たことがないと多くの人は言うだろうし、イカ見て何興奮してるんだと小馬鹿にされるとは思うが、イカを食い物以上の存在として見ないなんて、あまりにももったいなさ過ぎる。

 マウスパッドによし、バイク用のヘルメットによし。関節のサポーターによし。

 個人的には、水と水で、イカの水泳帽でしゃらっとジムで泳いでみたい。

 「あれ、もしかして、イカ?」なんて、こそこそと言われながら。

 あるいは、「えーっ、それもしかしてイカですか? きゃー、触らせてくださ〜い。えーっ、うっそー、吸い付く〜」なんて。

 妄想……。

 ところで、イカくさい男とはどんな男なのだろうか。

 新年早々必死こいて考えることでもないのだが、いや、あえて考えることにしよう。

 「イカくささ」とは、イカのアンモニア臭やそこから連想される股間の残尿臭のことを指しているのではないかというへんに「具体的」な解説もあるが、そんなことよりも、もっと抽象的な「オナニー感」、「オナニーばっかりしてそう」、あるいは、「今したばっかり」、そんな感じが漂う人に送られる立派な称号だと思っている。

 「イカくさい男」という称号。

 これは、私の中でなぜかロバート・パーマーである。

 それは誰か。 

(有名なMTVビデオクリップの中で)あのくねくねと踊るサイボーグメイクの美女を侍らせ、自身はタキシード姿で「Addicted To Love」(恋におぼれて)を歌った、今は亡きイギリスのミュージシャンである。

 ロバート・パーマーが実際にオナニーばっかりしていたかどうかは、そんなこと知ったこっちゃない。だが、「イカくさい」という感覚に、この人の絵柄が不思議とはまる。

 もう少し、イメージを広げてみよう。

 「イカくささ」とは官能でもあると同時に、へんにフォーマルな感じが漂う。

 部長とか執行役員っぽい。

 日本的にいうと「樟脳臭い」というか、タンスの奥から引っ張り出してきた女将の着物姿に感じるエロスというか、ウエディングドレス姿に欲情する列席おやじの感性というか、相当に変態っぽくなって収拾がつかなくなってきたというか、とにかくイカはいい感じの「公式感」が漂う。厳かな食い物だと思う。

 もう、考えるのがめんどくさくなってきた。いいや、この辺で。

 この放りっぱなしも、イカの純文学性だと思う。


Robert Palmer - Addicted To Love


2011.01.10 | コメント(0) | トラックバック(0) | マンガ的!

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プロフィール

中丸謙一朗

Author:中丸謙一朗
職業:編集者・コラムニスト
1963年生まれ、横浜市出身。立教大学経済学部卒。1987年、マガジンハウス入社。『ポパイ』『ガリバー』『ブルータス』などで編集を手がけた後、独立。著書に『大物講座』(講談社)、『ロックンロール・ダイエット』(中央公論新社・扶桑社文庫)、『車輪の上』(エイ出版)、漫画原作『心理捜査官・草薙葵』(集英社コミックス)など。編著多数。

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