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【八王子にて】

 今日あったことをなるべくゆっくり話そうと思う。仕事明けに外出した、どうでもいい午後の出来事だ。
 人と人がふれあった。しかも、男と女だ。もしかするとそう言えるのかもしれない。だが、その二人の距離は50メートルも離れている。メガネをかけていなかった私の視力ではなかなか事態が把握できなかったぐらいの距離だ。その昔のBBCのコメディ番組『モンティパイソン』に手旗信号で愛を語り合う男と女という”ギャグ”があったが、まさにそれを彷彿とさせる距離だ。

 私は今日は比較的ヒマだったので、昼間、陽のあるうちに片付けられる用事を”こなそう”と思っていた。郵便局に行って切手を買う、楽器屋で(中身を確認しながら)弾き語り用の分厚い楽譜を買う、クリーニング屋に冬物のレザージャケットを持っていく、昼間ならなんとか予約が取れるお気に入りのマッサージ屋に行く、そんなところだ。荷物も多く、へんに段取りも多いので、小一時間家で準備した後、いいかげんな格好とどうでもいいリュックサックを背負って家を出た。何が入っているかって? たいしたもんであるはずがない。一週間以上出しそびれていた封書や汚れてくしゃくしゃになったレザージャケット、カバーをはずした読みかけの文庫本などだ。

 いいかげんな格好というのをもう少し説明しよう。長袖Tシャツとジャージだ。ジーンズですらない。別に誰にも会う予定もなく、ユーミンの世界で言えば、存在自体が「安いサンダル」の状態である。気合いが入っていないというより、わざとのようにそんな格好をする。先日も若い女子にメールで「うぜえ」って言われてちょっと嬉しかったが、そういうところが、中年のめんどくさいところだ。

 マンションの前は大きなバイパスである。クルマはビュンビュン走っている。歩行者信号は二分ぐらい待たされ、夜、酔っぱらっているといつも信号無視ダッシュをしているので、そのうちはねられて死ぬんじゃないかと思っている、そんなバイパスである。

 その大きな道を渡ると2ブロックぐらいの土地を使って中学校と高校がある。べつに一貫校ではなく、両方とも地元の公立の学校である。私はその学校の敷地の脇を歩いていた。何を考えているか? 家から出てまだ50メートルぐらいしか歩いていない空間でそんなにたいそうなことを考えているはずはない。せいぜいが、「今日の夜どこで飲もうか」とか「なんで糖質を我慢しているのに痩せないんだろう」ぐらいのどーでもいいことだ。

 視界の先には高校の校舎が見えていた。進行方向左手のフェンスを越えた斜め左に見える四階建ての校舎だ。ふとそこに目をやると制服の女子高生が、校舎の窓枠に足を窓の外に投げ出すようにして座っていた。そこは四階である。彼女は無表情でゆっくりと手を振っている。

 「何かの部活?」「そういうことでもないか……」

 女子高生はまだこちらに手を振っている。ま、俺みたいな知らないおじさんに手を振ることなんかないだろう。私はボーッとしながら歩いてる。

 「えっ!? でも、ちょっと待てよ。窓枠に座って平然としてるけど、あそこ四階じゃないか。校舎がL字型に入り組んでいる一角なので下の部分はよく見えないけど、少なくとも二階部分までの空間はない。つまり、落ちたら危険、いや、死ぬことだって十分に予想できる高さだ」

 「うえ!? 自殺? まさかあ」。時間は平日の14時半頃だ。そういう黄昏にはほど遠い。高校を出てからもはや30年以上も経っているし、子どものいない私には、女子高生の存在そのものがぜんぜんリアリティがない。だが、どうやらその女の子が、ただ道を歩いているこの俺に一生懸命に手を振っているのは確かみたいなのだ。

 私は脳内になんの解決の手段のないまま、フェンス沿いに歩みを続けていた。そして、私は自然に彼女に声をかけた。
 「お〜い、あぶないぞ〜」「おっこちるぞ〜」

 まるで居間のふかふかの絨毯の上で遊んでいる親戚の子に「適当な」声をかけるような緊張感のない言い方だった。
 彼女は聞こえているのか聞こえていないのか、まだ私に向かって手を振っている。ただ、どういうつもりか、明らかにこの私のことを意識しているような感じだった。私はゆっくりとしたペースだが、抑揚を変えずに同じことを言い続けた。

 「あぶないよ〜」「おっこっちゃうぞ〜」

 「コラ!」とか「なにやってんだ!」みたいなセリフは私の中からはぜんぜん出てこなかった。躾などに縁のない子なし男だからなのかもしれない。

 彼女のいる位置と比較的近い校門前に差し掛かり私が立ち止まった頃、彼女は窓枠の上で下を向きながら顔をくしゃくしゃにして泣き出した。その時点で私と彼女の距離は、大きな校門と高低差を挟んで約30メートルぐらいだろうか。私は再び同じことを言った。ただ今度は、遠いながらもおたがいの顔を見ながらだ。

 「あぶないよ〜」「おりな〜」私の間抜けな声が虚空に響き渡った。
 一瞬の間があった。彼女は意を決したようにくるっと身体の向きを変え、窓枠から廊下側に降りた。そして、こちらに向き直り、何やら興奮したように、必死に私に手招きをする。私はべつに行ってもいいのだが、行く手には校門と監視カメラがある。私は「行けない」と手を左右に振った。彼女は興奮しながらさらに手招きをする。私は手を左右に振る。まるでできの悪い「モンティパイソン」だ。こんなやりとりが二三度続いた後、彼女は思いついたように表情を変え、今度は手のひらを上下させた。どうやら、「そこで待ってて!」ということらしい。私が曖昧にうなづくと、彼女はすぐに廊下側へと走り去り私の視界から消えた。ホッとしたというか、ボーッとしたというか、ポッとしたというか……私はなんだか思考停止に陥った。

 校門前に佇んだ。とにかく待つことにした。でも、待って何があるのか。フェンス越しにその子の「彼に振られた話」や「進路相談」や「部活の仲間とうまくいかないという話」を聞くのか。この俺が? なおかつ、俺でいいのか? あるいは、俺じゃやばいんじゃないのか。とにかく私はジャージにリュックサックで校門前に立ち尽くしていた。

 5分経ち、10分経ち、20分が経過した。

 何も起きない……。

 あの子は途中で倒れているんじゃないか、授業に戻ったのか、なんだか関係のないおじさんなのにいろんなことを考えた。この場合、善意の第三者というより、間抜けな門外漢という感じだ。

 その子は来ない。言い忘れたが、私が予約したマッサージ屋の時間は15分後に迫っている。私は平日の動物園の虎のように大きな門の前をウロウロとした。たぶん、監視カメラにはばっちりと写っているだろう。気のせいかもしれないが、校舎の入口付近にいる二三人の女子高生たちが私を見てざわついているような気がした。

 もうだめだ。イッツ・オーバー。私は何かをあきらめ、何をあきらめたかもわからないまま、そのまま何事もなかったかのように散歩を続けた。

 あったことはこれだけである。

 何もなかったと言えば、何もなかった。だが、何かがあったことも事実だ。人生はできの悪いドラマのように単純ではない。その子がいったい何をしようとしていたのか、彼女の目にいったいどんな景色が映っていたのかは、私にはわからない。

 高校の教科書で志賀直哉の『城の崎にて』を読まされた。療養先の散歩時に、何げなく投げた石が川縁のヤモリだかイモリだかに当たり、思いっきり落ちこむという、当時のアホな高校生には、なんとも辛気くさく思える小説だった。

 今日、八王子であったこと。サイレンも火薬も派手目な女性記者も登場しないし、虫一匹死んでいない。だが、辛気くさいかどうかはわからぬが、これはこれで私にとっては、ひとつの素敵な物語だったような気がしている。

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2013.06.03 | コメント(0) | トラックバック(0) | マンガ的!

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プロフィール

中丸謙一朗

Author:中丸謙一朗
職業:編集者・コラムニスト
1963年生まれ、横浜市出身。立教大学経済学部卒。1987年、マガジンハウス入社。『ポパイ』『ガリバー』『ブルータス』などで編集を手がけた後、独立。著書に『大物講座』(講談社)、『ロックンロール・ダイエット』(中央公論新社・扶桑社文庫)、『車輪の上』(エイ出版)、漫画原作『心理捜査官・草薙葵』(集英社コミックス)など。編著多数。

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